人生は白い犬(=尾も白い)

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淡嶋神社

和歌山県和歌山市の郊外、加太に淡島神社があると和歌山の知人に教えてもらった

で、橋本市滞在中に橋本市の住民MUM奥様に案内してもらった


淡嶋神社

加太淡島神社ともいう

御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おおなぬちのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)である
なお、少彦名命は恵比寿様、大巳貴命は大国主命(おおくにぬしのみこと)などの名があるが大黒様である
この神社のHPを見ると、少彦名命が主祭神のようである

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淡嶋神社は、はじめ淡島、つまり加太の友ケ島の神島にお祀りされていた

神社のHPを一部引用させていただく

「御祭神の少名比古那神(すくなひこなのかみ)は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で手俣(たなまた)からお生まれになったという小さな神さまですが、神代の昔、大穴牟遅科神(おおあなむちのかみ)すなわち大国主神(おおくにぬしのかみ)と共に心を一にし力を戮(あわ)せて此の日本の国土を御経営(おつくり)になり、人々だけで無く、鳥や蓄(けもの)に至るまで諸病を治す薬方をお定めになると共に裁縫の道を広められた、いわゆる医薬・裁縫の親神さまと称えられる御神徳の高いお神さまであらせられます。

一説によると「天照大御神(あまてらすおおみかみ)の女(むすめ)で、住吉大神(すみよしのおおかみ)の后(きさき)になられた『あはしまさま』が婦人病を患ったため海に流されてしまう。お嘆きになったあはしまさまは、『この悲しみから世の女性を救いたい』と仰せになり『紀州加太』に祀られた。」とあります。

この淡島さまの祭日が三月三日であったことから雛祭り(ひなまつり)とも結びつき、淡島を祈れば婦人病に罹(かか)らず丈夫な子を授かると信じられたのです。」

神社でいただいた『御由緒』を読んでも、神代の神々を御祭神にしていると書かれた後、「淡嶋様」の名称が出てくるが、よく読んでも関係が分からない
淡嶋に祀られた淡嶋様と少彦名命の御神徳(病を治る術、酒を醸すこと、裁縫の術を授けたこと等)とを結び付けているのであろうか

そしてここでは淡嶋様を医薬の祖神酒造の祖神と崇められている

さらに加太淡嶋神社という名称をみると、『御由緒』には次のように書かれている。

「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は応仁天皇を安産された。その後、御孫仁徳天皇が淡嶋に御幸し給うた時、御祖母の御崇敬ましました神様であるからとて今の加太の磯間の浦に遷し御祖母の命(みこと)をも合わせ祀られた。
それで加太神社と称え又旧宮の名による淡嶋神社とも又両名をとって加太淡嶋神社とも称え奉る」。(一部引用)

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さらに『御由緒』には、「当御祭神は医薬の祖神で荒れれますから諸病を癒し給う事著しく殊に夫人の病気平癒、安産、子授けが最も多い」ともある。

筆者の一番知りたい人形(ひとがた)の存在が全く分からなくなってきた

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鳥居をくぐって境内に入り、振り返ってみる

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本殿正面である

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そして様々な人形(ひとがた)がジャンル別におかれている

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社殿の左側奥の社に向かった

大国主社
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社殿左側奥
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末社
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中をのぞかせてもらった

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おびたたしい数の陽物が奉納されており、よく見ると陰物も奉納されている

安産祈念の社には陰陽石が置かれていることが多いが、多くは農業が盛んなところとの印象が筆者には強い
漁業盛んなこの地に陰陽物が報じられているのが意外であり、浅学を恥じる

おりしも今日は三月三日、淡嶋神社の主要な神事、祭事の一つである雛祭が執り行われるひである
この日は雛納および雛流の神事があることから、全国から多数の人形(ひとがた)が奉納される日だ


さてMUM奥様のお薦めで参道にある食堂で、ご当地名物‘おく貝’をランチにいただくことになる

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DSC_7937おき貝

これが思いのほか美味である

ところで生前我が母が言っていた‘淡島様’のことである
着飾った女性を見て「淡島様のようだ!」としばしば言っていた
着飾った神像でもあるのかと母の言った謎ときの意味も込めて当地に来たのだが、母の言う‘淡島様’は見当たらない
おき貝をいただいた食堂の御年輩女性に尋ねると全く知らないとのこと

帰宅してから姉に電話で尋ねると、‘淡島様’の母の発言は覚えているとのことで、現地では無縁と伝えると姉も
近所のお年寄りに尋ねても

しかし3月1日日曜日に千葉県在住のおば宅を訪ね‘淡島様’のことを尋ねたら、長年の謎が瞬間に溶けた
おばが子供の頃、着飾った女性が背中にお宮を背負い、‘淡島様’を名乗って歩いていたという
子供たちは当時この女性が通ると「淡島様」と言いながら供に歩いたそうだ
さらにおばはこの‘淡嶋様’が脚から流れ出ている血を見て、「かわいそうだ、淡嶋様がけがをしている」と嘆いたという
今となっては「あれは生理だったんだ」と述懐して話してくれた
母はおばとは一回り以上歳上なので、よく観察していたはずだが、生前私が訪ねなかったこともあり、詳しくは話してくれなかった
この女性は狂女なのか神がかりの女性なのか、今では誰にも尋ねようがない

最後に休日の貴重な時を主婦業後回しにして案内してくれたMUM奥様、ご案内にとても感謝しています

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紀伊國一之宮、三社めぐり

しばしば一之宮(一宮、一ノ宮、一の宮)を採りあげているが、今回は一日で三社の一之宮を訪問したので三社について述べよう

一之宮とは律令制国家において国司(現代の知事に相当)は任国内の諸社に神拝すると定められており、その際に最初に訪れるのが一之宮、二番目が二之宮、三番目が三之宮などとされている

原則、一国一社であるが、時代によりその国により、山城国(京都)など一国二社などもある
一番多いのが越中国(富山県)の六社であるが、そのほか多いのでは信濃国(長野県)と出羽国(山形県)の四社である
三社は陸奥国(福島県など)と紀伊國(和歌山県)の二国である

かねてから一之宮と国府(国司が政務を執る施設。現代の県庁所在地の相当)との位置関係に興味があり、一之宮を訪れると国府の位置が気になってしまう
紀伊國の国府は名草郡(なぐさぐん)にあったと伝えられており、この郡は現在の和歌山市の大部分と海南市の一部を占めている
そして、国府の場所は現在の和歌山市府中の府守神社付近(阪奈線の南側)と推定されるが、遺構は発見されていない

当日は橋本市高野口町在住の写真仲間のフレンド倉治さん、そしてそのご近所に住むMUM奥様に案内され効率良く三社巡りができた


丹生都比売神社 紀伊國一之宮

すでに一度採りあげた社であるので詳細は避ける。
詳しくは2013年8月2日アップのブログをご参照されたい

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以前はこの橋を渡ることができたが、渡れぬように縄で通行禁止となっていた

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社伝によると今から約千七百年前の創建というが、単純計算して西暦314年頃になる
仁徳天皇の時代であるから正確な歴史は残されているのであろうか

さて紀伊國の国府からの距離であるが、約31km、徒歩で6時間半ほどであろうか
現代人の歩速では1キロ約15分、4キロ約1時間ほどであるが、往時の歩速はもっと遅かったと思われる
ちなみに江戸時代に整備された一里塚は一里毎(およそ4km)におかれ、旅人は一里歩いて休息を取るなどの目安としたのだろう



日前神宮・國懸神宮 紀伊國一之宮

神宮の神職からいただいた資料によると「日前國懸神宮(日前宮)」「(ひのくまくにかかすじんぐう(にちぜんぐう)」とある

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鳥居をくぐり太鼓橋を通過すると、左方向に日前神宮(ひのくまじんぐう)、右方向に國懸神宮(くにかかすじんぐう)の案内板がある

神道は‘左から’のしきたりがあるので、まずは左方向の日前神宮に向かって歩いた

日前神宮
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そして東側に向かう

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國懸神宮
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社伝によると「創建二千六百餘年を溯る」とある
紀元前から存在するということは神代神話の時代となる


北東方角に位置する国府からの距離は約6キロ、徒歩で約1時間20分ほどであろうか


伊太祁曽神社

「いたきそじんじゃ」と呼び、神職からいただいた資料では「木國一之宮」とある
木國が紀伊國となったのは、諸説あるようだ
まず、名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名されたとの説。
和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であるからとの説。
そして、和歌山弁で‘き’の発音を‘きぃ’とすることから出ているとの説もある。
そういえば‘に’を‘にぃ’、‘て’を‘てぇ’などと発音することを様々な体験から覚えている

紀伊国と表記するようになったのは、和銅6年(713年)「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時からのようである。


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御祭神は、五十猛命(いたけるのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子である。 『日本書紀』では我が国に樹木を植えて廻り、緑豊な国土を形成した神とある。『古事記』では大屋毘古神(おおやびこのかみ)とある。
本殿の両側の脇殿があり、妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)、都麻津比売命(つまつひめのみこと)が祀られている。

『続日本紀』によると創建は大宝2年(西暦702年)とある。

また当地に鎮座する前は、日前神宮・國懸神宮の社地に祀られていた

さて国府との距離であるが 、国府からほぼ南約10キロ、徒歩約2時間である


紀伊國での三つの一之宮を採りあげたが、資料がすくなくて最初の一之宮がどこになるのかわからない。
さまざまな記述から、日前神宮・國懸神宮、丹生都比売神社、伊太祁曽神社の順、あるいは、日前神宮・國懸神宮、伊太祁曽神社、丹生都比売神社の順になるのだろうか


次回訪問の際には、是非とも和歌山市府中の府守神社にも足を向けたい

今回は仕事の関係で最初の一之宮だけ同行してくれ宴席の機会を設けてくれた倉治さん、残りの二社と人形(ひとがた)供養の神社なども案内してくれたMUM奥様に心から感謝をもうしあげたい

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吉備の神社めぐり~

11月末、機会があって、吉備の国の神社めぐりをした
某組織の岡山・島根(出雲)ツアーの同行をしたからだ
ツアーの訪問地を選ぶ際、主宰者より企画の意図を聞かされてから企画立案し、現地訪問の運びとなった

広島空港に参加者が集合し、スタートしたのは午後15時過ぎ
最初に訪れたのが吉備津彦神社である

この時期は暮れるのが早いということで、吉備津彦神社の氏子副総代かつ「吉備の中山を守る会」会長さん自らのご案内で我々の求めるところを時短で見せてもらった


吉備津彦神社

備前国一宮である

一宮とは、過去にも触れたが、律令国家において、国府(現代の県庁所在地に相当)に国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう。現代の知事にほぼ相当)が治める国に派遣された際、一番最初に詣でる宮である。

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主祭神は、大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)、第七代考霊天皇の第三皇子(みこ)であり、別名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)である

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今回の旅は中山めぐりであるから、社(やしろ)参拝の時間は短くして、氏子副総代から神社とその背後にある中山のブリーフィングを受けて、早々に社を立ち、山に向かった

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本殿背後にそびえる中山(標高175m)には様々な遺構がある。


吉備の中山

中山茶臼古墳古墳(伝・大吉備津彦命の墓、全長120mの前方後円墳。宮内庁が管理)を参拝してから、御陵敷地内の穴観音を見る

穴観音
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仏像を刻んだ石の側面に穴がある。中山茶臼古墳の埋葬者を拝む磐座である。

『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)の時とされるから、古墳敷地内にこれらの像がおかれたのは、古墳が造営されたかなりの後のことである。

さらに奥に進む

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ストーンサークルのようなものとも取れるが、検証できていないようだ

ダイボーの足跡
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大坊主(大坊)の足跡と言われる窪地である。細谷川の水源、水の祭祀場とも推測されている。

八畳岩
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祭祀の道具が発見されていることから、古代の祭祀場である

古来から巨石信仰はあり、これが自然信仰、転じて、山岳信仰、修験道などになる

神道では「神、山におわす」であり、仏教の影響を受けてから今日おなじみの神社という形がある。
これは「神道は仏教に習え」ということで仏教が国教になって以来、従来なかった神道の形が仏教を模して造られたのである。

古神道では、祈念事がある際、神職が執り持ち、降神していただき願い事を聞き入れてもらい、昇神していただく。
その際の清めの場として、信仰の対象となる岩がある。
この岩を、磐座・磐倉・岩倉(いわくら)という。

この八畳岩こそ中山における磐座の一つと考えられている。
ここで大祓詞を奏上させてもらった


鏡岩
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一番大きな岩の西面が鏡のように平らなことから‘鏡岩’の名がついた。磐座の一つとも考えられる。

中山にはさまざまな遺跡があるが、日没となり、すべて回るのは無理であるため、ここで打ち切った

さて、主宰者がなぜこの地の訪問を決めたのか、若干の引用をさせていただく

「吉備の中山は太古より神がおわす山の神奈備山(かむなびやま)として崇められ、古代祭祀跡、巨石遺構、古墳などがある隠れたる大聖地です。
山麓には吉備津神社(備中国一宮)と吉備津彦神社(備前国一宮)という、二つの一宮が鎮座しています。
吉備津彦神社は、太陽信仰の形態をとどめており、6月22日の夏至(昼が最も長い日)には、随身門から、太陽が昇り、吉備の中山にある元宮の方向に沈みます。
元宮とはその神社が最初にあった場所に祀られる場所です。吉備津彦神社の奥宮磐境は、重要な神様を祭る神社です」。

ということで、二つの一宮、その二つの一宮の背後にある中山、この三か所をツアー初日の訪問地としたのだ。


吉備津神社

備中国一宮である

吉備国が広いことから、備前、備中、備後と分けられ、それぞれに一宮がおかれている。
備前と備中の一宮は触れたが、備後の国の一宮は広島県福山市にある吉備津神社である。


主祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)、第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命(または五十狭芹彦命)という。

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本殿と拝殿は国宝である
これは「吉備津造り(比翼入母屋造)」と言われ、日本建築の傑作の一つと言われる。

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釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られているが、日没により、細部の見学が叶わず、ツアー初日の疲れを癒す宿に向かった



巨大国、吉備国が国土が広い故に三つに分けられた。
そして豊かな農産物を経済の要にしたのであろうが、海族故に交易で更に国を富ませたのであろう。


参考
吉備の中山を守る会

http://kibinonakayama.com/

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| 神社 | 11:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北海道の神社-来運神社

明治32年に開墾された来運地区に、名水が湧き出ると聞いた
宿泊先の知床プリンスホテル風なみ季にチェックインした際、ロビーに置かれた“来運神社の水”でそれを知った

で、翌日立ち寄ることにした

斜里市街から約10km、車で15分程 であるとの情報だが、カーナビでは表示がなく、スマートホンのマップナビに頼ったが、うまくたどり着けない
同行者の一人がi-Pad持参していたので、そのマップナビに頼ることにして“来運公園”に難なくたどり着いた

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最初の鳥居を過ぎるとすぐに湧水汲み場があった
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近くにはこのような碑もある
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斜里岳に積もった雪が数十年の歳月を経て湧き出ているという
湧出量は毎分5トンを誇っています。水温は摂氏6度前後で夏は冷たく、冬は凍らないそうだ

斜里岳
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さて、境内にすすんでみよう

水汲み場そばを渡って数分進むと二の鳥居がある
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そして運水橋を渡る
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さらに進む
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拝殿が見えてきた
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中をのぞかせてもらった
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肝心な御祭神であるが、分からない(+o+)

ネット検索しても来運神社関連では名水しかヒットしない((+_+))

國學院大學日本文化研究所編『神道事典』にも記述がない((+_+))

ひょっとしたら北海道神社庁のデータベースにもないのか確認すると、斜里町には斜里神社の記述しかない(?_?)

言葉から記述のあるHPを見つけた

「来運の語源もアイヌ語です。アイヌ語で「ライクンナイ」。
直訳すると「死者の沢」。死者の沢というと、イメージ悪いですが、
アイヌ民族特有の思想で、死者は恵みの神の後継者なわけです。」
とある(・。・;

やはり祭神や由来、由緒はわからない(゜_゜>)

概して北海道には本土由来の神社があるが、北海道に移住した人たちが故郷ゆかりの鎮守の神や氏神などを勧請したことが多い
なお、勧請とは、 神仏の来臨を請うこと、あるいは 神仏の分霊を他の 場所に移しまつること、である。

明治二年に北海道神宮を鎮座させたのは、日本の国土としてより明確にするための国策であり、その他の地の神社も本州や四国、九州などにある神社を勧請させたものが多いようだ


北海道神宮
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来運神社の由緒などがわからないまま、意に反して、このトピックは終わる

| 神社 | 15:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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久々の神社訪問(^^ゞ

3月の神社詣で -その2


三日目


三崎に宿泊した翌日、朝食後、同行者達と海南神社(かいなんじんじゃ)を訪れた


海南神社


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三崎港交番近くの商店街を北に向かって歩くとすぐに神社に行きつく

相模国三浦総鎮守である
そして三崎の人々の崇敬を受けている鎮守の社である
地図によると、相州海南髙家神社ともある。

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拝殿
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権現造である。

本殿
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神明造である。

拝殿で参拝して境内から去る人が多いようだが、本殿の裏側に行くことができればなるべく一周して本殿建物を眺めるのが私的見学法である
どのような彫り物があるか、装飾があるかなどを見て回るのである

予備知識もなく三崎に来てしまったが、地元でお店を営む知人のお店勝手口に立派な神棚があり、そこで総鎮守が近くにあることを知った

ご祭神は、藤原資盈(ふじわらのすけみつ)、そして資盈の后である盈渡姫(みつわたりひめ)、地主大神(じぬしおおかみ)、素戔嗚尊/須佐之男命(すさのおのみこと)、天日鷲神(あめのひわしのかみ※[別称]大鳥大神)、菅原道真(すがわらのみちざね)、筌竜弁財天(せんりゅうべんざいてん)である。

藤原資盈は、清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷され、貞観6年(864年)、任地の筑紫国へ赴く途中、暴風により三浦半島に漂着し、当地の長に推戴されている。
資盈はその後房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀っている。
天元5年(982年)、現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となり、承応2年(1653年)には正一位に列せられ、享保4年(1719年)には三浦半島の総鎮守となった。
明治6年(1873年)に郷社となり、明治40年(1907年)に神饌幣帛料共進神社に指定されている。

なお、藤原資盈は藤原式家(ふじわらしきけ)の一人で、藤原広嗣(ひろつぐ:藤原宇合の長男)の五代孫である。

地主大神は土地神、素盞鳴尊は天照大御神の弟神、天日鷲神(あめのひわしのかみ)は阿波(あわ)の忌部氏 (いんべし)の祖神、菅原道真公は言わずと知れた学問の神、筌竜弁財天(せんりゅうべんざいてん)は地元の竜神伝説の主で三浦七福神である。


春うららのなか、城ケ島を散策し、美味しい海産物ランチをいただき、一行とはしばしのお別れを
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ランチでいただいた、しったか貝
P3162899しったか貝

海鮮丼
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一行と別れたのち、大学時代の同級生宅に向かった
この夜も旧友とその家族と一緒に楽しい夕食と歓談を楽しんだ

P3162904三崎の真魚家(まなや)
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四日目


横須賀市の郊外に宿泊したので、かねてから訪れたいと思っていた走水神社に行くことにした




走水神社


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ご祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)である。
記紀(『古事記』『日本書紀』)を読んでいると日本武尊の話が結構あり、様々な苦難を乗り越えて、蝦夷(えみし)を平定する様子がわかる。
その中でも走水から上総国(かずさのくに)に渡る際の、悲劇というか、后を失う逸話はあまりにも有名であり、筆者も印象深く覚え、故に一度は訪れないと話にならないと思っていた。
それ故の今回の訪問である

そもそもなぜこの地から海路千葉に渡ろうとしたのか、古代東海道のルートを見てみたい。
東海道と言うとお江戸日本橋から都に至る街道だが、古代は鎌倉を経て走水に至り、ここから海路をたどって上総の国へ通じていた。
江戸時代以前は現在の都心は湿地帯であり、内陸側の武蔵野国を通って北に渡る、東山道もあった。

さて、12代景行天皇の皇子(みこ)日本武尊は、景行天皇即位40年に東国鎮定を命じられた。
途中、静岡(焼津)では、賊にだまされ火攻めの難に遭遇されたが、雨叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙払い、向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したといわれ。この剣は神宝・草薙之剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっている。
このことにより日本武尊は火伏(ひぶせ)のご神徳ありと崇敬されている。

尊が走水から上総に渡ろうとしたが暴風雨に遮られ立ち往生してしまった。
その際、同行の后が自ら入水して海神の怒りを鎮め航海の安全を図ったという話が記紀(特に『日本書紀』)にあり、このこともあり、走水神社は創建されている。


拝殿
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弟橘媛命の碑
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拝殿右側と本殿裏手
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日露戦争の記念物
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捕獲した露西亜の機雷である。


さらに奥に進む

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神明社
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左から、諏訪社、神明社、須賀社

諏訪社は出雲を明け渡して諏訪に移った建御名方神を祀る社(やしろ)で、出雲の大国主命の子神。国津神(くにつかみ)、地祇、地に現れた神々の総称、土着の神。

神明社は天照大御神を主祭神とする社。天津神(あまつかみ)、高天原から天降った神の総称。

須賀社は素戔男尊(すさのうのみこと)、建速須佐之男命、須佐之男命を祀る社。天照大御神の弟神。

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山を下り、駐車場に向かおうとしたら、包丁塚の存在に気が付いた
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走水の住人であった大伴黒主が日本武尊に料理を献上した故事に由来するという。

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そして場所柄気になったのは頭上を飛来する航空機だ
飛びモノ好きにとってはたまらなく、カメラのレンズを標準から300㎜の望遠に変えたい衝動を、神社見学終了まで抑えていたが、駐車場に着いたら早速望遠にレンズ交換をして米軍ヘリや自衛隊ヘリ、羽田アプローチの航空機などをカメラにおさめた(@^^)/~~~

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こうして3月も終わり、来週からいよいよ新年度、4月に入る

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